共生の文化

花鳥風月の場所論 3

3 形而上学としての古今和歌集


*仮名文字と形而上学

 初の勅撰和歌集の古今集がこの平仮名書きによって公に編纂されたことは単に表記法の変化にとどまない。一方では自らの思いをあたかもうたうように、語るように書け、他方享受者にとって、書かれた和歌を通してパロールを呼び起こし、直接に歌の詠み手の経験へと導かれる道を提供したのである。和歌を目で読んで享受するもの、書かれたもの、エクリチュールとして変質せしめた。

 デリダによると、現象学における「根源的な直観」とその「言語表現」を媒介するものは、独語としての「声」(自分が語るのを聞く)である。この意味で「声」は内面とぴったりと重なっているはずである。だから、自分が語るのを聞くという意味での声こそが経験や直観のありのままが言い当てられるべき根源であると考えられる。そして、まずはじめに声それ自体としての言葉=話し言葉(パロール)があって、次にその写しとして書き言葉(エクリチュール)が出てきたと考えられてきた、という。

 デリダはこのことを音声中心主義と呼び、この考え方がヨーロッパでは伝統的にとられ、形而上学を支えてきた、と主張する。

 しかしながら、デリダによれば意味=現前が最も根源的なのではない。
むしろこの「意味」は「言葉」(再現前)が何度口をついて出ても、いつも等しい意味を持ったものとして語られるという反復の可能性によって、はじめて根源的な意味たり得ているのである。

 我々のふつうの考え方では、生きた現実の経験があって、言葉はそれを写し出し言い当てるものだとみなされている。しかし、デリダによれば生きた現実というものが既に我々の言葉の使用によって分節され、織りあげられたテクストなのである。

 現実と言葉とが独立にあるわけではない。現実が既に言葉によって編まれたものである。(14)

 デリダの指摘する現実と言葉との形而上学的関係が、日本においてまずはじめにはっきりとあらわれるのは、仮名文字の成立であり、古今和歌集はその中心である。その意味で古今和歌集は形而上学meta-physicsである。

 ここではデリダのように形而上学の誤謬を暴くことが目的ではなく、世界の全体を統一において捉えたいという欲望のあらわれが形而上学という形をとらしめたのだということを見ておきたい。

 佐藤正英によれば、日本の伝統の自然美である「花鳥風月」は古今集によって確立した(15)。

 ここに大いなる逆説がある。つまり、日本の伝統の自然美は、自然を見据えることをやめ、自らの内面を「思ふ」態度において成立したmeta-physicsなのである。従って「花鳥風月」は内部空間に存在するのであって、外部にあるのではない。その意味で、それらは知覚の対象であるよりも、言語であり、したがってイメージであり概念であるという特質をもち、又意味するものの(意味されるものと独立に)自己遊動としてのレトリックをも作り上げるのである。

 そもそも形而上学とは対象を外側から捉えることではなく、対象それ自体の内に身を置き、直観を持つことによって全体を捉えることである。「直観」のラテン語intuitioはその動詞intueor(in内で+tueor観る)に由来するように、内観とでも言うべき態度をとることにその本質がある。つまり形而上学は内部空間的なのである。


*古今和歌集の世界性とその構造

 古今和歌集は二十巻からなり、その部立は春、夏、秋、冬にはじまり、大歌所御歌、神あそびの歌、東歌に至る。

 新井栄蔵は、この部立のうち、四季部から雑体部まではいわば人歌であり、大歌所御歌は神歌、また種々の徴証から、四季部は恋部に対応し、物名部は雑体部に対応するとみなせ、仮名序は「風俗」の体、真名序は「書記」の体であるとして次のような構造を見出した(16)。

     |ーーーー風俗の序ー仮名序
     | 
     |        |ーーー四季ー賀ー別旅ー物名
     |  |ー人歌ーー|
     |  |     |ーーー恋ー哀傷ー雑ー雑体
     |  | 
     |  |
     |  |ー神歌ーーー大御所御歌
     |
     |ーーーー書記の序ー真名序

 人、神を対称軸とする対称構造の幾何学的構成がある。なかでも花鳥風月としての自然を詠んだ和歌が巻一から六の四季の部立に集められ、同様にかなりの歌数を占める恋歌と対応しつつこの和歌集の構成する世界の最も大きな比重を占めている。ここでは花鳥風月としての自然と恋が人的世界の中心に据えられる。

 さらに四季の部立の内部に注目すれば、例えば春の巻では、「喜びに輝く春を迎え、雪をめで、鴬の鳴く音に耳を傾け、・・・萌え出づる若菜や松や柳の緑を賞がんし、・・・梅、桜、藤、山吹と、ひき続いて咲く春の花に愛情を投げかけ、・・・春の過ぎ去るのを惜しむ(17)」といったように和歌が配列されている。

 より微視的にみれば、巻一のはじめに立春を詠んだ和歌が集められているがそれらも、氷が融け、春霞が立ち、鴬が鳴き始めるといった、季節の微妙な推移に沿って配列せられているのである。花鳥風月としての自然は、一つ一つの草木の知覚的現前としてではなく、緊密な関係をもつ全体秩序世界を構成しているのである。

 古今和歌集の部立は万葉集の部立とは著しく異なっており、一方、以後の二十一代集とよばれる勅撰和歌集は古今和歌集の部立を踏襲している。歌集としての世界の仮構は古今和歌集に始まり、以後の勅撰集に踏襲されるのである。

 このように、古今和歌集は全体として幾何学的世界像を示し、その全体と響きあう花鳥風月的自然はまた円環の時間構造をもっている。

 古今和歌集における自然はいま、ここの知覚的現前を喚起するものでなく、概念的な「桜の花というもの」、「ほととぎすというもの」であって、個々としては「非在」であり、全体として花鳥風月の自然という彼方の世界を指示し、その世界を喚起する限りで存在しうる景物である。

 それらは今、ここにはなく、彼方にある。しかし、同時に、ありありと私の内にある。一種の曼荼羅なのである。


(14)デリダ:根源の彼方に(グラマトロジーについて)、声と現象、第4章
(15)佐藤正英:花鳥風月としての自然の成立、自然ー倫理学的考察、金子武蔵編、所収
(16)新井栄蔵:古今集の部立、「一冊の講座 古今和歌集」P.47
(17)松田武雄:古今集の構造に関する研究




LinkIconPage top


LinkIcon共生の文化 top へ