茶道の身心空間


Analysis of the Tea Ceremony System 4

茶道のシステム分析 4

4・茶道の空間性2


7・1 茶道における聴覚

 日常的には、視覚は他の感覚に比べて状況を対象化し、明晰化する能動的傾向をはるかに強く持っている。一方、聴覚は受動と能動を行き来する。このことは音が癒しと深くかかわる契機となっている。

 十四世紀の末に成立したといわれる『喫茶往来』に示されている茶会の過程は、形式的には利休の茶事の形と多く重なっているが、最も顕著な相違は、利休は茶事から歌舞・管弦、宴席を排除したことである。利休によって遊興の音が排除されたとき、一転してそこには静けさが支配するようになったはずである。茶人は、それまで喧噪に隠れて聞こえなかった音と、あらためて向かい合うようになった。

 対象とのそのようなかかわりかたは、わび茶を創始した村田珠光の「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉とちょうど響きあう。眩しいほどの月が雲の背後に陰ることによって、初めて見えてくる世界。わび茶の音も、管絃の魅力的な調べが絶えたときに聞こえて来る未知の音の世界であった。

 中川真は次のように述べる。
 「いま私たちは賑やかな雑踏のなかにいるとする。私たちの聴覚はそれに対してどのような反応をするだろう。ひとつはすべての音に対して耳を開くこと。そのとき音は洪水のように鼓膜に押しよせてくる。私たちは音の渦の真只中にいる。もうひとつは何も聞かないか、あるいは特定の音だけに注意を傾けること。…わび茶における耳は後者、すなわち拡散型ではなく求心型を志向しているのではないか。遊興を捨て、静謐を求める彼らにしてみれば、賑やかな市中は必ずしも条件に恵まれているとは言い難い。にもかかわらず利休たちは困難な場所を選ぶことによって、集中力を高めんとするかのように京に踏みとどまった。*23」

 はたして、利休は特定の音にのみ注意を傾ける集中力を高めんとして、敢えて市中の喧騒の中に茶湯の空間をつくったのであろうか。わび茶の耳は拡散型ではなく求心型を志向するのであろうか。

 利休の茶が禅の境地を目指すものであれば、禅の冥想、つまりはヨーガの階梯を登っていくはずである。

 ヨーガの八階梯において、五、制感、六、凝念、七、静慮を経て、八、三昧に至る。茶湯においてまず、雑念を払う、ここで周囲の雑踏は聞こえなくなる(制感)、次にお茶を点てる、お茶をいただくことに集中する、ここでお茶にかかわる音だけが選択的に聞かれる(凝念)、つまり求心的な聴覚の能動性が発揮される。しかし、実は、禅の境地はこれからなのである。

 求心的な感覚の能動性は影をひそめ、選ばれた音は一筋に伸び、むしろ拡散していく。茶湯の音とともに、雑踏もまたより明晰に聞こえてくる。茶人にとって、この雑踏はもはや遮断されるべき雑踏ではない(静慮)。こうして音はより鮮明に聞こえ、しかもそれにとらわれることはない。茶人の心は平静そのものである(三昧)。

 この意味で、敢えて言う、わび茶の耳は求心型ではなく、集中的拡散型である。



7・2 茶湯における五感の重視と共通感覚

 進化論は人間の進化の特徴を遠距離感覚器の発達に見ようとして来た。

 特に西洋美学においては視覚、聴覚を高等と見なし、味覚、嗅覚、触覚を劣等感覚と見なして来た。そこで視覚、聴覚を駆使し、他の感覚を事実上排除するような芸術を発達させてきたのである。詩、絵画、音楽、彫刻、建築、舞踊は一義的には眼と耳に依存している。

 一方、茶道においては、五感がフルに触発されるようなインスタレーションが用意されている。しかし、重要なことは、五感の刺激そのものにあるのではなく、それらを通して心身のある変容を導くことにある。五感の個別の快適性に留まるならばリラクセーションになり得ても、深い癒しへと深まっていくことはない。そのためには、感覚は共通感覚の層まで降りていかねばならない。

 ここで、喫茶について、夏目漱石の『草枕』の文章を見てみる。
 「茶碗を下へ置かないで、其のまま口へつけた濃くうまく湯加減に出た重い露を、舌の先へ、一しずく宛落して、味って見るのは閑人適意の韻律である。普通の人は茶を飲むものと心得て居るが、あれは間違だ。
 舌頭へポタリと載せて、清いものが四方へ散れば、咽喉へ降るべき液は殆んどない。ただ馥郁たる匂いが、食道から胃の中へ沁み渡るのみである。歯を用うるは卑しい。水は余りに軽い。玉露に至っては、濃かなること淡水の境を脱して、顎を疲らす程の硬さを知らず、結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも茶を用いよと勧めたい。」

 ここには、茶を飲むということが、共通感覚の層まで降りてゆくひとつの道が示されている。

 共通感覚とは五感を貫き統合するものであり、デカルトによれば心と脳とを結びつける松果腺が共通感覚の座である*24。白いとか甘い、といった形容詞が視覚上の色や味覚上の味をこえて言われることからわかるように、日常的にも共通感覚がはたらいている。
アリストテレスによれば、共通感覚は異なった個別感覚の間の識別や比較のほかに、感覚作用そのものを感じる働きとともに、個別感覚では捉え得ない運動、静止、形、大きさ、数、統一性を知覚する能力を持っている。さらに、時間についても共通感覚によって識別が行われている。

 また記憶は、たとえそれが思考の記憶であっても、イメージなしには成り立ち得ないが、イメージとは共通感覚の受動態にほかならない*25。共通感覚は、我々の言うSYSTEM/1とSYSTEM/2の重なりの場所にあって、時間、空間の体験、思考と感性の基層構造をなしているのである。ヨーガで言う制感、凝念、静慮、三昧とは、この共通感覚の変容過程でもあるのだ。



(23) 中川真: 平安京音の宇宙、平凡社 1992
(24) デカルト:省察第六部、世界の大思想ルネ・デカルト7、河出書房新社、1969
(25) アリストテレス:記憶と想起について、アリストテレス全集より、岩波書店






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