宗教の身心空間
東洋的癒しの構造とその場所づくりについて
2 東洋的冥想とその場所性
環境とは、さしあたり人間の外にあってそれを取り巻く環界である。しかし、本来、気(中国)またはプラーナ(インド)と呼ぶ生命エネルギーは外界と内界とを交流するものであり、したがって東洋的冥想修行者にとって環境は単なる物質的対象ではなく、外界、内界の区別を超えた生命的自然の秩序として実感される自己の心身(ユングの言うSelbst)そのものとなってゆく。
Selbstにとって人間と世界の関係は開放系となり、エコロジカルとなる。このことがハイデッガーの言うところの「世界・内・存在」の東洋的内実であろう。しかし、これはハイデッガーの言う時間性としてではなく、身体的場所として西田幾多郎の言う「無の場所」性、「存在」性ではなく「生成」性と理解しなければならない。(古典ヨーガの言う究極的な「無種子三昧」、西田の言う「絶対無」は今は措く)
冥想するとき、我々はまず自分の外部より、内部を「感じる」ようになるとともに、内部を、更に内外を越えて「観ずる」という状態になる。つまり、SYSTEM/1とSYSTEM/2は日常において、習慣的身体の次元(M.ポンティ)で重なり合っているが、冥想の深まりとともにこの二つはより深く重なり合っていく。これは深層心理学的に昇華のプロセスであって、この構造変化をひきおこすエネルギーを気と呼び、プラーナと呼んでいる、と考えることができる。したがって、東洋的Selbstは、客観でもなく純粋意識でもなく、常に「ここ」という実感を伴った明晰な場所であり、しかし、日常の「有の場所」と区別された「無の場所」である。
メルロ‐ポンティは「現勢的身体」のシステムを活性化する身体の「身体図式」を仮説した。また、エドワード‐ホールは客観的身体よりひとまわり大きいhuman bubbleとしての身体を発見した(4)。これらは本論で仮設するSYSTEM/1、SYSTEM/2の重なり合う心身の、ある現象を見ていると言える。しかし、彼らはその心身の「変容」を見ていない。「癒し」は心身システムの変容によって獲得される状態である。そのような変容によって、心と身体の調和としての真の健康、潜在能力の開発、人格の向上を同時に結果するものである。
このような東洋的冥想は「現勢的身体」においてなされるのではなく、SYSTEM/1、SYSTEM/2の重なり合いの全体としての心身システムにおいてなされるのである。したがって、例えば丹田の位置やチャクラの位置等も「客観的身体」の上に置かれるのではなく、この心身システム全体の「身体図式」の上に比定されなければならない。この心身システムはトポロジカルである。つまり、冥想における「身体図式」は様々なレベルにおいて、その広観、斂観に応じて、ケシ粒から、人体、家、神殿、都市、国家、大宇宙などとして感得される。したがって、これは単なる記号論的な「宇宙論的象徴法」(エリアーデ)ではなく、むしろ記号の「生成」なのである。
一方、このように冥想の深まりとともに感得された「身体図式」は後進の修行者にとって冥想の導き、装置yantraとして機能する。仏像、マンダラの作壇、ヴィハーラ、高野山、ボダナート、バイヨン、ボロブドゥ―ル、黄山、カイラーサ山なども本来、皆そのように機能すべくつくられ、あるいは選ばれた。したがって、これらは本来、偶像や美術作品でもなければ、日常生活の道具でもなく、装飾品でもなく、また物理的環境でもない。冥想によって感得された心身=世界の相貌そのものであると同時に、だからこそ、癒しのための空間装置たりうるのである。
(4)エドワード・ホール:隠れた次元、みすず書房(日高敏隆他訳)