共生の文化
自然との共生
自然と真に共生するためには spirit によるしかない。
自己と他者が真に共生するためには spirit によるしかない。
ある木や山や岩に畏敬の念を起こさせる spirit を感じた感受性の強い人は、それとのよりよい、より深いコミュニケーションの必要を感じて、おのずと手を合わせ、あるいは手を打ち、あるいは足を踏み鳴らすだろう。又その場所をふさわしくしつらえるだろう。
こうして祭りの原型は出来上がる。
しかし、こういった spirit の感覚に乏しい人はなぜそうするのかわからない。
なぜかわからないがそうするのだと教えられ、そうして、しきたり、風習の形で祭りの形式が継承される。
spirit の感覚に乏しい多くの近代人にとって、このようなしきたり、風習を押し付けられることが、当然、非合理的、迷信、盲信の類に感ぜられてくる。
ところが、そのような近代人も、自然を適切に保護しないと自分たちの生活も出来なくなるぞと警告されて自然を大切にしようとする。これは悪いことではないが、結局のところ、これ自体は、自分の利益、自分の町、村の利益、自分の国の利益、もっと大きく人類の利益のための行動であって、真に自然と共生することではない。かつての冷戦状態や現代の国際経済状況のバランスのようなことを真の共生と呼ぶことは出来ない。
真の共生とは、自己と他者、私とあなたが共に生き、共に死ぬこと。
別の存在者が、真に共に交流することでなくてはならない。
情報や物や便宜を互いにギブアンドテイクすることではなく、その底に自己と他者の壁を越えて広がる spirit に基づくほかはない。
私と他者は所詮、別の存在である。別の存在だから、私のことはあなたにはわからない、あなたのことは私にはわからない。
しかし、spiritという次元に立てば、私と他者という自我の壁を、やすやすと通り抜けることが出来る。
真に、共に生き、共に死ぬというのは、この次元に立つことである。