共生の文化 ー 料理の本質


(ある大学での講義録音の一部)

 例えば、明石の鯛が美味しい、といいますね。でも、ナマが美味しいといって、鯛の塊をポンと置かれて、それをかぶりつくかというと、多くの日本人は抵抗があるでしょうね。なぜでしょうか。ここに、料理をすることの本質が隠されています。

 料理というのは何かというと、自然の文化化なのであり、自然を文化にしてしまうことなのです。
大ざっぱに、一方に自然があり、他方に文化があると考えてみましょう。
一方に自然というもの、例えば、明石の鯛という野生的なものがあり、他方では文化、としての調理された刺し身の皿がある。自然と文化の間で、自然を文化にする、この行為が料理なのです。

 明石の鯛はナマが一番美味しいのであれば、かぶりついたらいいじゃないかということもあるけれど、刺し身という調理をして初めておいしい明石鯛になるのです。
刺身って芸術的なほど美しく盛りつけされますよね。寧ろ、刺身のように自然に近いものほど、きれいに並べると思いませんか。あれは何をしているのかと言うと、自然を文化にしているのです。

自然なものを煮たり焼いたり燻製にしても、これも自然の文化化ですね。
この意味でも火を使うということは文化の象徴です。自然を文化にする最も典型的なはたらきは火を使うことかもしれません。
ギリシャ神話のプロメーテウスはゼウスの命令に背きながらも、人類が幸せになると信じて火を与えたのでした。

 文化人類学者のレヴィ・ストロースは彼の「料理の三角形」の理論の中で、ただの材料が食べものへと変化する過程を説明しています。
「ナマのもの」が「料理されたもの」と「腐ったもの」の2つに分離し、「ナマのもの」「料理されたもの」「腐ったもの」の三角形ができあがる。ここで、「料理されたもの」は人工的な変容過程、「腐ったもの」は自然的な変容過程を経てできる。
こうやってレヴィ・ストロースは自然と文化の二項対立を、様々に見事に立体的に読み解いていくのですが、はじめに例を挙げた、明石鯛の刺身の場合はどうでしょう。
滋賀県の鮒鮨、水戸納豆、などは?
これらの日本料理を考えると、ナマのもの、料理されたもの、腐ったもの、という対立構造によって日本の料理文化を考えるのでは大事なものが欠け落ちてしまいます。
レヴィ・ストロースの説のように単純にはいかないですね。

 もう一度、鯛の刺身を考えてみましょう。
多くの日本人にとって、生の鯛を皿の上にボンと出されてもそのままかじりつきたいとは思わない。刺身という調理を経てはじめて食べ物となる。生き物が食べ物となる象徴的な行為なのです。火を使っているわけでもない。刺身という調理法は、一種の宗教的、芸術的行為なのです。板前の仕草、盛り付け等、全て宗教的、芸術的行為なのであって、単なる飾り付けではありません。

 これがこの場合の自然の文化化のありようです。だから、自然の文化化とは、一方に自然があり、他方に文化があって、前者を後者に取り込む、domesticateする、ということにとどまらない。その根本に自然との共生の次元があり、これは宗教的、芸術的次元なのです。

はじめに料理は「自然の文化化」だと言いましたが、ここまでくると、その言い方では不十分であることがわかります。
それは、生きることに最も純粋なところで、「自然の文化化」であると同時に「文化の自然化」であると言わねばなりません。
単に自然を飼いならすdomesticateするのではなく、真の意味で自然との共生の次元があります。それをこそ純粋な意味で、宗教的、芸術的、と呼ぶべきでしょう。









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