建築 Architecture


家から歩み出すときの身体空間性



 神話的空間においては、「身」(精神と峻別されがちな身体という言葉を使わず、ここでは身心合一の意味を込めて、身という言葉を使う)を原点とする自己中心的な質的座標系は、向う側の原点に照らし出されることによって、非中心化され、身自身を支える神話的な質的座標系のうちに包み込まれる。その原点ないし中心軸は、身の外におかれるが、独持の宇宙論的象徴法(Eliade)によって、<身一家一聖殿-都市一宇宙>は、たがいにたがいの比喩となり、超越への通路を、開示する。


 現代都市では、おそらくこういう事情はそれほどはっきりとは認められないであろうが、しかし町の周辺部にある私の住居から「町へ」行くと私が言う場合、私は中心にむかって移動するということに相当する感情をもつ。これと同様に、例えば、村は町ヘ、小さい都市はより大きい都市ヘ、というように関連づけられている。われわれは、自分の住んでいる家の位置とは一致しない、個人をこえるこのような中心のぼんやりとした感触をたしかにもってはいるが、しかし、具体的にどこにそのような中心があるかはあいまいである。

 理念としては、無中心化された系を想定することは可能であり、「均質空間」の概念はこのようにして成立する。しかし、これはわれわれが日常生きている空間ではない。建築家、Mies van der Rohe の universal space は確かに内部空間を均質化する力をもつが、重力の方向や直方体空間の周縁と中央といった異質性をなくすることはできない。まして外から形態としてとらえるときには、その幾何学的均質性によって、空間の非均質性を逆に強調する役割をになうことさえある。
 われわれが生きている空間は、自己中心的であると同時に間主体的な両義的空間である。人やものは私の前にあると同時に、私はそれらの前にある。私は向う側からとらえられている私を把握し、そこに空間の体験が生まれるのである。向きを変えるにもかかわらず、私の前はつねに前であり、後ろは後ろであり、私の右はつねに右であり、左は左である。上-下については言うまでもないであろう。そのかぎり身に癒着した方向性は、狂おしいくらい私につきまとい、交換不可能である。それは「癒着した方向性」というより、身そのものである方向性にほかならないのだから。だが同時にこの事態は前が後ろとなり、右が左となる転換の経験そのものである。それは他者の視点に立つ可能性の経験であり、逆にいえば交換可能な私の経験にほかならない。私は、身の交換可能性と身の交換不可能性の両側的関係において成立する。他方、身の方向性は、空間のうちに間身体化され、客体化される。ファサードや表口と裏口は、世界を間身体的な方向性をもったものとして分節化し、逆に身を世界の経験のなかにすべり込ませ、世界の経験を身にとけ込ませるのである。(*l)

歩くことの体験

 自分の家から外へ出る時、その行動は一定の定められた可能性にしばられている。人間はあらかじめ設定された道をとおってそれを選びつつきわめて容易に、それどころか、たいていはこれらの道をとおってのみ目標に到達することかできるからである。到達すべき目標にむかっているとき、前と後ろとの対立は、この道の方向意識によって規定されている不可逆的な意味を獲得する。前と後ろとのこの単純明解な対立のなかに、この運動ははさまっているのである。前は、行動し、操作する方向であるから、われわれの意識や知覚が、現実の行動と可能的な行動の算術的な差であり、可能的な行動のデッサンである(Bergson)とすれば、前は、可能的な行動空間であり、より明確に分節化された、明るい意識的な空間としてあらわれる。又、行動は社会的なかかわりのなかで行われるから、前は社会的交渉の場であり、万人に妥当する客観的認識の場であり、いわばロゴスの支配する公的空間として、意識的・公共的な性格をもつのである。他方、前は前進する方向であるから、未来のイメージを与えられる。それに対して、後ろは、行動し、操作することかむずかしい方向である。したがって後ろは分節化の度合いが低く、未分化のまま渾然とした状態にある。それば無防備で危険に満ちた不安な方向である。だからわれわれは後ろに空間があることをきらい、なるべく壁を背にしようとする。後ろでの世界とのかかわりをさけるのである。又、後ろは、前進との関係でいえば背後に残される空間であるから、過去のイメージを与えられる。未来が可能性であるのに対して、残された過去は決定性である。(*2) ところで或る事物が運動しているのを知覚するとき、われわれはその運動において二つの区別すべき要素を認める。即ちその事物が通過した空間と、その事物的空間を通過する行為とである。これらの要素の内、前者は量的なものであり、後者はわれわれの意識の中でのみ実在性を持つ質的なものである。こうしてわれわれは運動が不可欠の契機として、時間的に一義的な規定から得られる時間的継続の関係と、統一にもたらされるこの相継起する諸状態の間の連関、という二つの根本契機を前提していることを、具体的経験によって認めるのである。実際、運動における時間的契機は、意識の内と外にあっては著しく異なった形をとる。運動は或る点から別の点に至る迄の中間の全連続状態を通過しなければならない。それ故にまた、時間においても連続すると考えられることになる。これに反して主観的時間の体験を形成する意識内的運動においては、上のような連続的推移が全然現われない。このことは、例えば読書していた一時間と音楽を聴いていた一時間とが、同じ一時間として測られるにも拘らず、その長さは異なるものとして意識されるという、単純な日常的体験からも明らかである。体験された主観的な時間は、諸要素が相互に浸透しあって、分割を許さない性質的変化の継続の表象、いわば純枠の異質性であって、非連続的なものなのである。(*3)この意識内的運動の異質性・非連続性の感知を、やまとことばでウツロヒと言うのであろう。ウツロヒとは元来、空洞に霊魂が充満する瞬間の感知であり、ウツ、ウツロ(空・現・内)とヒ(魂)に由来する。ウツル(移る)もここから発するのである。事物が通過する空間としては、道は連続性によって特徴づけられ、線的連続体としてイメージされる。つまり、道は居住領域とは違って、地域を運動へとうながす一つの離心的空間であるとも言える。しかしその途中で何かが起こる(take place)と、そのとき道はそれ自身、異質的非連続の統一性の場として体験されることになるのである。

さすらい歩くことの体験

 我々は日常的に、道具を見つけたり、道具を使ったり、或いは諸々の記号を参照しつつ、道順を組織したりしながら、様々な問題を具体的に解決して行動している。しかし、この行動は、それ自身をふり返らないが故に自らはこの場の出来事に気づかないでいる。Bollnowはこのような行動から、さすらい歩くことDas Wandernを区別する。さすらいあるくことは自己目的である。つまり、道具連関から解放されているのである。しかし、このことは、さすらいあるく者が、たとえばある展望のよい場所をたずねるとか、またタ方に旅館に到着するとかいった目標も設定しないということを意味してはいない。これらの目標は、その人のさすらいに一つの内容をあたえることに役立つだけである。また、ある特定の目標をもって出かけた者が途中で風景のとりこになり、さすらいあるく者の心をもつようになってしまったということもあるかもしれない。そのときそのひとは、自分の内的構えの転換を経験したのである。無限に遠方の土地へむかってさらに遠く先へ先へとひきつけていくという道の本質、すなわち、具体的な目標の一つ一つを越えて行かせる道の「超越」は、もはや、さすらいあるく者の心を動かさない。そのような人の行く道はそれ自身のもとでくつろいでいるのであり、「先へのびていかないで、その中心部分の周囲をまわっているのである。さすらいあるくというのは、地域の全体にあらわれている情味lnnigkeitが、平衡をたもっている点のまわりを巡回することである」。inneに由来するinnigとは、まずinwendig(内側にある、=inne+wenden)である。したがって地域が自分自身のうちにやすらうHeimlichkeitをあらわしている。(*4)これはまさに前稿に論述された、ウツ、ウチなる充実の時空そのものであろう。

 前稿では、(*5)ウツなる時空がイヘ、イハムこととの関連において論述されたのであるが、本稿では地域においてinnigな、heimlichなウツなる時空が論じられた。

しかし、見ることの対象としての風景がここで明確に把えられたわけではなく、Heimatの風景とは上述のinnig・heimlichなウツなる時空の述語的統合の上に成り立つ、より主語的な統合であろう。そして、おそらくその視覚像の美は、ウツクシ、つまり間身体的に、親密な親愛な美として、見る者に見えてくるのであろう。

参考文献
*l.市川 浩: 方向性と超越(超越の座標、所収)
*2.市川 浩: 方向性と超越(超越の座標、所収)
身の構造(人称的世界、所収)
 宮本忠雄: 精神病理学における時間と空間(異常心理学講座第10巻新版、所収)
*3.H.Bergson: 時間と自由 
*4.O.F.Bollnow: 人間と空間.第2章第3節
*5.拙稿:風景論のための基礎的考察3(S58年度 日本建築学会) 
 風景論のための基礎的考察4(S58年度 日本建築学会大会学術講演梗概集) 

(初出、日本建築学会大会学術講演梗概集、昭和59年、中島康、風景論のための基礎的考察5、地域におけるウチなること、を一部改定)





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