共生の文化
人間・環境システム論のパラダイム (ch.3)
Paradigm of Human-environment System
3 癒しの人間・環境システムの要素
H=f(p,i)の要素
*「癒し」を「心身の深い安定状況」と定義する
最近の流行語の癒しという言葉から、深い宗教的境地までをも通底する癒しの定義が可能であろうか。
「癒しとは五感すべてが快適に満たされること」と理解されることもあるが、一般には快適ということと癒しということとはニュアンスが異なることは実感されるし、我々の予備的調査結果からもそのことが窺える。
オルポートの人格理論にも明らかなように、心の健康にとって、その安定性の重要性が指摘されており、より安定な心の状態になったときわれわれは癒しを実感する、と表現することに問題はなかろう。そこで、それを発展させ、無意識の座である身体をも含んで、我々は「癒し」を「心身の深い安定状況」と定義する。このように定義することによって、一般的な日常的レベルから、深い宗教的境地に至るまでを「癒し」として考察できる。
この意味で、癒しとは霊性の次元における現象である。
関数H=f(p,i)を記述するためには、pとiの定義域とHの値域、そしてその対応の決まりfが与えられなければならない。(p:performance i:installation)
仏教においては、概述すれば、自らの内に潜む聖なるものを見出すことが心の平安を得ることであり、悟りに入ることとされ、その智慧と修行が説き明かされている、と言ってよいであろう。つまりそれは本論の定義する「癒し」の道そのものである。
ケン・ウィルバーに拠れば、最も深い意識のレベルへの道の一つが金剛乗仏教・大乗仏教であるので、そのシステムとして、システム的に最も完備しているものの一つとして真言密教の修行システム(四度加行)を分析する。それにより、そこには以下のようなシステムがあることが明らかとなる。それを癒しのシステムとして仮設し、さらに、その仮設はより広く大乗仏教のシステムの中で妥当することが立証できるのであるが、その詳述はここでは省く。
*四度加行と摩訶止観の分析
金剛頂経は次のように記述する。
いわゆる五相成身観、第一・通達菩提心真言を説示する箇所に、心の平安(正等覚)を得るための方法が端的に示されている。すなわち、冥想(三昧)を通じて自らの心を深く知ることであり(大日経の中心的教義の一つである「如実知自心」)、真言を誦することである。そしてこの二つは全く同じことである、という。
このことについての具体的な内容を見ていくために、密教僧の基本的修行である四度加行をとり上げる。
以下の分析は、高野山出版「四度加行」等を参照して、筆者が分析したものである。
*四度加行における、pとi
真言密教における最も代表的で重要な修道システムは四度加行であり、これを経て伝法灌頂に至る。これは通常、十八道行法、金剛界行法、胎蔵界行法、護摩行法の四段階にわかれており、次のようなプロセスを踏む。
1・四度加行入行まで
2・十八道行法
3・金剛界行法
4・胎蔵界行法
5・護摩行法
6・伝法灌頂
空海の頃はまだこのような加行のプロセスは出来上がっておらず、空海の師恵果の口授をもとに創案され、鎌倉時代初期に整備されたものとみられている。
いずれも道場を飾り、香をたき、花を献じ、諸仏を招き、真言念誦し、観法を修し、諸仏を送り返すものであるが、十八道法では如意輪観音または大日如来、金剛界法・胎蔵界法では大日如来を主尊とする金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅、護摩法では不動明王をそれぞれ本尊として練行を積む。
このプロセスを抽象化して分析すれば、それぞれそのp:performanceとi:installationの形態を異にしながらも、相似の構造を持つ行法を繰り返しつつ次第に深化していき、即身成仏に至ろうとするものであることがわかる。
このプロセスは次の行法のpとiとの組み合わせによって構成されている。
(1)修行者が自身をpurifyして三業を三密となす
(2)結界(sima-bandha)を張ること
(3)道場(bodhi-manda)のinstallation
(4)本尊を迎え、もてなすこと
(5)入我我入
これらの各行法のpには各々個別の身・口・意の方法が対応し、各々に印相(mudra)、真言(mantra)、冥想(dhyana)が指示されている。
*摩訶止観の分析
又、いわゆる顕教においては、天台智顗 が「摩訶止観」*において、修行法を分類、体系づけた。四種三昧がそれであり、次のように分類される。
(1)常坐(一行)三昧・・・文殊師利所説般若経によって90日一期として結跏趺坐しつづける行
(2) 常行三昧・・・90日一期の般舟三昧経にもとづく歩きつづける行
(3) 半行半坐三昧・・・7日一期の方等三昧、21日一期の法華三昧にもとづき、ある時は歩きつづけ、ある時は坐して三昧をおこなう行
(4) 非行非坐三昧・・・行住坐臥に関せず、一切のことを達観して心のままに行う三昧行
各行法のpにはやはり個別の身・口・意の方法が対応する。
このように4種に分類体系化されているが、常坐(坐りつづけること)と、常行(歩きつづけること)が基本となっていることがわかる。
より広義には、常坐三昧を静止的な冥想(dhyana,meditation)又は坐すことの癒しと捉えることが出来、一定の姿勢を保ちながら意念を何かに集中して、雑念を払い、心の動きをしずめていくことからはじまる。ただし、必ずしも坐すことに限らない。立禅のような形式も静止的冥想に分類すべきものであるが、密教の三密加持行、坐禅、ヨーガ(yoga)のアーサナ(asana)などがその典型と考えることができる。
一方、常行三昧は運動的冥想といえる。「摩訶止観」に記載されている「般舟三昧」は常行三昧堂に阿弥陀如来をまつり、仏をたたえる言葉を唱えながら、仏像のまわりを百日間まわり続ける行である。また比叡山の籠山行は何千回もの五体投地を何ヵ月もの間繰り返す修行法である。同じ比叡山の回峰行は円仁の弟子、相応が始めたと伝えられているが、比叡の山とその周辺の京の町を千日間歩き続ける行である。
常行三昧においても、常坐三昧においても、その目的は三昧samadhiの境地を体験することにあり、冥想が次第に深まって雑念が消えていき、心が澄み切った状態の体験、つまり癒しの体験を得ることにある。
*H=f(p,i)の要素
以上により、癒しのシステム要素を以下のように定義することには妥当性がある。
H=f(p,i)
H:癒しの状態
関数f:癒しの技法
p:身(身体、坐と歩が中心)、口(呼吸、発声)、意(意識)
i:五感、平衡感覚、運動感覚の対象となる環境要素
こうして、ここにひとつの癒しのトレーニングシステムの構造が具体的に示された。
*天台智顗:摩訶止観、池田魯参:詳解摩訶止観研究註釈篇1997
(註)本研究は心身二元論をとらない。上記の要素において身、口、意、各々の状態は当然のことながら独立していない。身体の全体の扱い方が呼吸や発声のやり方を導き、意識のあり方にも影響するからである。そもそも本論の定義する深い「癒し」は心身一如に向かって深められるものである。しかし、コントロールの手法としてみた場合、これらは別々に扱うことが可能であるし、それがコントロール手法としては優れて有効である。