旅の身心空間


旅における heimlich な風景




 この小論は、著者の一連の風景論研究の一つである。今回は旅の時空における存在論的風景の現象を見るのであるが、ここでは、ひとまず旅を、定着民と旅人との出合いという観点から見ることに限定し、又、それを定着民の立楊から、その集合的心性のレベルにおいて、風景の現象を見ることにする。


1,巡回と放射の時空

 ルロワ=グーランによれば、リズムの表現を最初に証拠だてるものは、ムステリアン終期に現れ、前3万年のシャテルペロニアン期に、すでにたいへん夥しくなるが、それは規則正しい間隔をおいた刻み目のある骨や石の断片である。それらの資料は、最初の測定体糸からなお数千年も前に、規則的な間隔をもつリズムをとらえたという証拠をもたらしてくれる。

 これは、四李や日々や歩行のリズム、心臓のリズム等の自然なリズム性が、規則的に暦や時間割や測定単位の表象の網の目のなかで条件づけられるリズム性へ移っていくはじまりである。これら表象の網の目によって馴化された時間と空間は、人間が自然の戯れを支配する舞台となる。調整された拍子や間隔のリズムが、自然界の混沌たるリズム性にとってかわり、人間が社会的に組み入れられることのイメージそのものになり、その結果、堂々たる社会の枠は、個人の運動がそこで時間に服従する都市や道路の碁盤目模様に他ならないまでになった。

ここに至って、空間と同様、時間を考える際に時間を出来事によって構成するか、出来事を時間の上に乗せていくか、という二つの異なった立場があらためて生じるのである。哲学史上ではアリストテレスがこの二つの立場を指摘していたし、ライプニッツが前者を、ニュートンが後者をとって対立したこともよく知られている。ところが、私という出来事を考えてみるに、過去の私は一つの私であると同時に、もはや私ではない。未来の私もまた、やはり一つの私であると同時に未だ私ではない。又、現在の私というのも、私であることに間違いないが、過去と未来から切り離された現在の私などというものはもはや私ではない。私の過去も私の未来も、私の現在も、私のものであると同時に私のものではない。私であると同時に私の他者でもある。つまり、自己同定に際して、馴化された時間、空間はそれ以前へとさかもどらざるを得ないのである。

そして旅は、唯一絶対と思われがちな馴化された時間、空間の体系を相対化するすぐれた方法であると思われる。旅が自己と他者との交換の場、いわば座標系の交錯の場であるならば、そこに不動な原点はどこにもないからである。

 まわりの世界を知覚するのは、二つの方法でなされる、とルロワ=グ一ランは言う。
一つは動的で、空間を意識しながら踏破することであり、もう一つは静的で、未知の限界まで薄れながら拡がっていく輪を、自分は動かずに、まわりに次々と描くことである。一方は、巡回する道筋に沿って世界像を与えてくれる。他方は、二つの対立する表面、地平線で一つになる空と地表のなかで像を統合する。このことはコスモロジカルには金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の世界像を思い起こさせる。

 巡回による方法は、地上動物を特徴づけるものであり、放射による方法は鳥を特徴づけている。前者は主として支配的な筋肉と嗅覚の知覚に結びつき、後者は主として視覚に結びついている。この二つは様々に結びついており、人間においては、この二つが本質的に視覚に結びついており、かつ並存している、とルロワ=グーランは言う。

それは世界を二重に再現することにもなったが、定着の前と後では、この二つの割合は逆転している。社会的に見れば、農業社会として成熟を遂げていった日本の社会の場合、遅くとも15世紀以降遍歴民は定着民に対して社会的劣位に立たざるを得なかった。しかし、もともと日本人の生活の中に、定着民だけではなく、旅する人々がある意味で方法として組み込まれていた。つまり、折口信夫のいうマレビト、ホカイビトあるいは定着民が旅に出た場合には、例えば巡礼というような形をとって、自分たちとは違った座標系の持ち主が、自己の他者、あるいは自己同定にあたっての自己の鏡像として、いわば日常の生活世界の不可欠のモメントとして組み込まれていたのであった。


2,異人の歓待と忌避

 定着民の立場からみれば、定住生活こそ日常で、遍歴、漂白は多少とも異常なあり方である。ある場合、それは定着民の共同体からの脱落、流離であり、前近代においてそれは例えば、戦乱、飢餓、犯罪、病などを原因とする。又、定住からの積極的な脱出もあり、意識的な出家、遁世、個別的ないし集団的な逃散などがそれである。

 中世後期以降にさかんになった社寺参詣、物見遊山のための巡礼や旅行も定住の日常からの一時的な離脱であった。そしてその頃には、自ら商工業、芸能、さらには武士として身を立てるべく、積極的に共同体を離れ、なお潜在的に遍歴、漂泊性をもつ都市に流れ込み、新たな定住生活にはいる道もひらかれていたのである。一方、遍歴、漂白する人々自身にとってみれば、それ自体が日常であり、たとえ根拠地をもっていたとしても、定住はむしろ非日常的な事態であった。この二つの視点の違いを、田畠などの耕地の側から見る視点と、山野河海、道自体に視座をおいた見方ということもできる。

耕地の延長として山野河海をとらえるしかたと、山野河海をそれ自体として管理するあり方との違いは、例えば地先の海や湖を縁辺の村落が網場、網代などとして所有する場合と、海や湖のどこで漁をしてもよいという権利をもつ琵琶湖の堅田のような場合をくらべてみれば明らかといってよい。それは田畠、屋敷の土地所有と、旦那場、売場、霞などの土地所有についても同様である。つまり、遍歴民は山野河海や道、さらには市や境それ自体の論理の代弁者ということもできよう。ここに、ルノワ=グーランのいう放射空間の論理と巡回空間の論理とを見ることができる。そしてこの山とか河とかが日本の神の原初形態であると一般に言われる、そのことも再考することができよう。

 日本の場合、古代の律令国家、中世の諸国家、近世の幕府、諸大名によって定められた土地制度は一貫して田地を基礎においてきた。そこでは畠地すら従属的な役割しか与えられてこなかったのであり、遍歴民と関わりの深い畑=焼畑や山野河海は、江戸時代になると、農村一農業民の用益の立場からの位置づけを与えられるようになったとはいえ、全体的な土地制度の外におかれつづけたのであった。このことは改めて驚くべきことである。なぜなら日本は周囲に広大な海を持ち、数多くの河川を持ち、山地、丘陵地の面積は全土の7割を超えているのである。

 日本古代の地域共同体がマレビト(異人、客人、まろうど)を手厚くもてなす風習を持っていたことはすでに論じられ、それは又、境迎えや落付後の供給、饗応などにもはっきりとあらわれている。マレビト歓待の習俗は制度化された部分をも含めて、実に現代にまで至っていると言ってよい。しかし一方、鎌倉後期頃から、忌避されるべき異人は「異類異形」と言われるようになってくる。それは「人倫二異ナ」る悪党の姿であり、「世の常の人に非」ざる「狩猟漁捕を事とし、為利殺害を業とせる輩」であった。

 網野善彦は、異人に対する村落社会の姿勢が、室町、戦国期から江戸にかけて、歓待から忌避を主要な側面とする方向に動いていくことに注意しているが、ここでは実存に関わる出会いの風景を見たいのである。つまり、単に、「我ーそれ」(ブーバー)の関係における、「それ」への歓待あるいは忌避としてではなく、「我ー汝」の関係への契機として捉え直せば、異人に対する歓待と忌避とは単なる逆転ではあり得ない。

 異人(あるいは他の集団)への贈与交換が神の代行者への捧げものであると同時にキヨメハライでもあり得、又、与えることがむしろ自己の立場の優位を保障することでもあり得るのである。異人を饗応することも、そもそも共食が自他不二的な交わりへの気分を準備すると同時に、共食の作法として明確なヒエラルキーをもち込むことでもあることを想起すべきである。異人の来訪は、神あるいは乞食の訪れであり、定着民は畏敬と軽蔑との混合した心態を以ってこれを表象し、これに接触したのである。従って「貴人」も歓待に甘えすぎると忌避されるのであり、過大な供給の要求に対する反発もあり、飯島(鹿児島県)の伝説、「異形のトシドン」は、これを象徴的にあらわしている。つまり、「横座」にすわって「ごちそうを要求する見馴れぬドテラを着た大男」が、「しまった、ゆっくりしすぎた」と叫んで村人に惨殺されるのである。又、異類異形と言われた人々の姿は様々であるが、例えば鹿杖と鹿皮、被物、ばさら、 蓑笠、柿帷子などであるが、これも本来は聖なる人、神の姿であったとも言い得るのである。


3、旅の存在論的風景

 ハイデガーによれば、人間の根本情態性は「不安」Angstである。不安のうちでは、無気味 unheimlichである。そしてこの無気味さは、家に在って安らっているのではないun-heimlich、ということを意味しているのである。不安は「現存在」を、彼が「世界」の内に頽落しつつ没入していることから取り返す。日常的な慣々しい親しさはそれ自身の内で瓦解する。そこにおいて現存在は孤立化されるが、それは世界の内に有ることとして孤立化されるのである。こうして、「内に有ること」In-seinは、家に安住せずという実存論的様態に入って来る。他ならぬこのことを、無気味さということは言っているのである。現存在が無気味さを理解している日常的な仕方は、頽落しつつ、家に安住していないことを遮蔽しつつ、無気味さから離反するという仕方である。こうして、家に安住していないことの方が、実存論的、存在論的には、一層根源的な現象として把握されなければならないのである。

 unheimlichは、heimlich、heimisch、vertrautの反対であり、従って何事かが無気味unheimlichなのは、それがよく知られ馴まれていないからである。しかし一方、隠されているはずのもの、秘められているはずのものが、おもてに現れてきた時、それがunheimlichでもある。フロイトの説明によれば、我々すべては、それぞれ個人的発展のうちに、原始人のアニミズムに相当する一時期を通過しているのであって、又、この一時期は、いまだに何かの折に外に現れる力をもった残滓や痕跡などを残すことなくしては、我々すべてから消えてなくなることのないようなものなのである。今日、我々が無気味と見えるものは、このアニミズム的な心理活動の残滓に触れ、これを刺激して外に出させる条件を満たしている。従って、この無気味なものは実際に何ら新しいものでもなく、又、見知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しいheimlich何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠にされたものである。こうして、無気味なものとは、秘め隠されているべきはずのもので、しかもそれが外に現れた何ものかなのである。不気味なものUnheimlichは親しいものHeimlichものだったのである。

 一つの出来事としての旅は、いつもそこで何ものかがやって来たり、何事かが起こったりして、計算可能な日常生活の連続性を破る。旅人の異装や仮面劇は、言わば定着民の前にさし出された自己同定のための鏡であり、ここに現出する既視体験に近いおどろきをともなった無気味な(unheimlich=heimlich)一種の原光景において、日常的なものと非日常的なもの、生けるものと死せるもの、見えるものと見えないものの間に象徴的な交換が行なわれる。日本の場合、トコヨとは、古くは常夜であり、ヤミの国として怖しい世界である。それが、例えば海の彼方なる祖霊の集い、とどまる常世とされたり、その常世なる霊や神が定期的にマレビトとして現世を訪れるという発想が根づいたのだろう。

 一般に、他界からの異様な一時の来訪者であるマレビトを迎えることがマツリであり、その日は「モノビ」であった。モノビは日常の日々からは厳然と区別されるべきであって、そのけじめを「モノイミ」、禁忌が定めている。その区別、遮断が要求されるのも、マレビトが聖なる存在たると同時に、それゆえ人を不安ならしめる、無気味な存在だったからなのだが、一方で、その無気味な存在が親しい存在になる、つまりunheimlich=heimlichとなる日がモノビだったのである。

 旅がこのような象徴的交換であるならば、その時、物語や芸能の象徴性をも、容易に、共通感覚的に開くはずである。折口信夫は、流浪の民とくにアマの民が貴種流離譚をはじめとする一連の話を各地に持ち歩いていったと見ている。旅と物語、芸能の関係は人類の歴史上、きわめて一般的なものである。旅する人がまた旅にかかわりの深い物語あるいは芸能を伝え歩く。そして、それは旅行記の類いのいわゆる写実的な話ではなく、無意識的想像力の媒介を経た、何らかの程度において幻想的な話である。従って、この言わば集合的な心性の次元での想像力の媒介を経た旅は、しばしば、この世の外の異界、死者や不死の者たちの領する世界との交流を含むことになるのである。

 この世の外の異界、死者や不死の者たちの領する世界との交流とは、まさに無気味である。しかし、物語や芸能は、非現実の虚構の場であることの前提のもとに体験されるのであり、そのもとに現実よりもはるかに豊富な象徴的世界の可能性を開く。例えば童話は公然と観念や願望の万能のアミニズム的観点に立っているが、普通は日常的な意味で無気味な印象を与えない。又、仮死者や死者の生き返りも童話や神話の中では当たり前でもある。そして、ここでは旅という設定のもとに、物語や芸能が展開される。それが当の旅人によって語られ、演じられるという旅の二重化のもとに、可視的世界の根源にある不可視の構造が、象徴的表現を借りて可視化され、我々の集合的心性の底深くに眠る一種無気味でしかし同時に親しい原光景がよみがえるのであろう。


4,結

 別稿において、「範疇的」意義における内と外から区別し、実存論的意味での内にいるということを、ヤマトコトバにおけるウチということばにもとづきながら、家あるいは地域を捉え直したのであるが、本稿においては旅の経験を実存論的に捉え直したのである。旅の時空においてunheimlich=heimlichとなる、その時に存在論的に、より根源的な、イヘに安住せす、という仕方で、ウチにいることが実現しているのである。そして、そのことは同時に、例えば、モノビをたてることであり、お旅所をたてることである。ここでは旅を、定着民と旅人との出会いという観点のみに限定し、その集合的心性においてのみ見たのであるが、そこでは、このようにして、見るということがおこり、クラシックというよりは、ロマンティックな風景が見えてくるのである。



(本稿初出、日本建築学会昭和60年5月「風景論のための的考察6ー旅におけるheimlichな風景」に
    若干加筆修正)



*1  風景論のための基礎的考察1一5 は 日本建築学会近畿支部研究報告集および全国大会講演梗概、
又、明石高専研究紀要第24号-27号
*2  アンドレ・ルロワ=グ-ラン:身ぶりと言葉、第13章、社会の表象
*3  同上
*4  網野善彦:日本民俗文化大糸6.漂白と定着、第13章、中世の旅人たち
*5  瀬戸内海能地の漂白漁民、伊勢の獅子舞の大夫たちの村に典型的に見られる。
(河岡武春:黒潮の海人、日本民俗文化大系5所収)
*6  網野菩彦:前掲書および同大系7、演者と観客
*7  同上:前掲書および日本中世の民衆像一平民と職人一
*8  折口信夫:折口信夫全集第1巻、古代研究、早川庄八:供給をタテマツリモノとよむこと一
日本的接待の伝統(月刊百科第210号)、宝月圭吾:高山寺方便智院領小木曽庄について
(高山寺典 文書の研究)
*9  峰相記
*10 一遍上人絵伝、その他、沙石集、自戒集(一休宗純)等にも同様の記述が見える
*11 網野善彦:遍歴と定住の諸相(日本民俗文化大糸6所収)
*12 マルチン・ブーバーは、我を対象化のはたらき以前にひき戻し、我一それという主体一客体関係とは別に、
    我一汝という根源的な関係を捉えた。(マルチン・ブーバー:対話的原理)
*13 無言文易の形。柳田国男:山の人生、参照、又、吉本隆明:共同幻想論の規範論参照
*14 贈与交換、ポトラッチについては(マルセル・モース:贈与論)
*15 岡正雄:異人その他、P136
*16 中沢新一:斬り殺された異人(伝統と現代、第38号)
*17 網野善彦: 笠と柿帷-一揆の衣装-(is総特集、色)
*18 マルチン・ハイデガ一:有と時 S.188-191
*19 例えば、ダニエル・ザンデルス:ドイツ語辞典
*20 ジグムント・フロイト:無気味なもの、(フロイト著作集3)、および、
   トーテムとタブー、第3章(同書所収)
*21 イザナキ、イザナミ神話、竹取物語、天の羽衣伝説から、能の定型まで
*22 拙稿:風景論のための基礎的考察3-5
   (日本建築学会近畿支部研究報告集昭和59年および大会講演梗概昭和58、59年)







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